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涼子のいないパーティは、初めてかもしれないと泉田は思った。
今日は元上司のリタイヤパーティ。
貸し切られた一棟建ての郊外レストランの庭はライトアップされ、ところ狭しとテーブルが並べられている。
もっともその元上司はキャリア組、ほとんど現場にも出てこず、泉田の顔を覚えているかどうかも怪しいものだ。
しかし『警部補以上は極力集合』と言われてしまった以上、まじめな泉田が来ないわけにもいかない。
小市民の身では、リタイアなら、もっと地味な、それこそ居酒屋でやる「お疲れさま会」でいいだろうと思ってしまうが、
このあと天下りで、とある地方銀行の役員におさまるとあっては、これくらいの華やかさと招待客は必要なのだろう。
もう少し場が盛り上がり始めたら、早々に挨拶をしておいとましよう。
凶悪にわがままな現在の上司のおかげで、中座のタイミングだけは良くわかるようになった。
日頃の苦労をこういうところで活用させてもらおう。
そう思いながら、出来るだけ庭の隅に立っていた泉田の耳に、控え目な、しかし凛と鈴が鳴るような声が飛び込んできた。
「泉田…警部補?」
その声に振り返ると、黒の少し光沢のあるロングスカートのスーツに身を包んだ室町由紀子が立っている。
「…室町警視、いらしていたんですか?気付かず失礼いたしました。」
泉田はもたれていた柱から身を起こすと、軽く敬礼した。
「泉田警部補もお仕えしたことがあるの?」
「ええ、室町警視も?」
「そうなの、ほんの短い間だったから、向こうはあまり覚えていらっしゃらなかったみたいで、驚いておられたわ。」
どんなに長い間でも、どんなに尽くしても、キャリア上司は泉田のことはころりと忘れてしまうだろうが、
どんなに短い間でも、由紀子のことは覚えているだろう。
驚いたのは、思わぬ大物が来てくれたからに違いない。
「ご挨拶もしてきたので、おいとましようとしていたところだったの。姿が見えたので声をかけてからにしようと思って。」
「ありがとうございます。でも私もそろそろ失礼しようと思っていたところなんです。」
「そうなの?もっとゆっくりしていけばいいのに。」
「それなら室町警視こそ。ご同期や御友達もたくさんいらっしゃるのではないのですか?」
周りはどう見てもキャリア組が多い。今、ほんの少し話をしている間も、由紀子に会釈をして通り過ぎていく人がいる。
「・・・ええ。」
否定はしなかったが、泉田は由紀子の逡巡を見てとった。
そして話題を変えた。
「あちらのワインはなかなかおいしかったですよ。お飲みになりましたか?」
「いいえ、赤?白?」
「白でした。では…。」
「そうね、それを頂いたら失礼しようかしら。」
頷いて微笑む泉田に、思わず由紀子も頬を緩めた。
通りかかったウェイターにワインをオーダーする素軽い動きを見ながら、由紀子はつぶやいた。
「ずいぶんと慣れているのね。」
「はい?」
泉田が、由紀子の方を振り向く。
「いえ…パーティの主催者も務まりそうなくらいの気配りだわ。たいしたものよ。」
「室町警視からそんなお言葉を頂けるほどでは…恐縮です。ありがとうございます。」
「上司の教育がいいせいかしら?」
由紀子のからかうような口調に、上司の艶やかな笑顔が蘇り、泉田はわずかに頬を引きつらせた。
「…恐れ入ります。」
ちょうど運ばれてきたワインを、会釈して2つ手に取ると、由紀子は泉田にグラスを差し出した。
「頂きます。」
「はい。」
軽くグラスを上げて、口に運ぶ。
「本当、おいしいわね。」
由紀子が微笑んだその時。
「室町警視、ここにいたのか。こいつが紹介してくれというので探していたんだ。」
「始めまして、刑事部捜査第二課警部補、松本と申します、東京大学の2年後輩にあたります。」
銀行員か、こいつ?というような固い、しかし頭の冴えそうな男が、先輩らしき男に連れられて立っていた。
由紀子がグラスをテーブルに置いて、軽く頭を下げただけのところを見ると、
一人は由紀子の同級生か同僚なのかもしれない。
「同窓会で一目ぼれしたらしい。
あの室町幕府のお嬢さんだよと言ってもあきらめなかったその根性に免じて、
少しつきあってやってもらえないか?」
「お願いします。あちらで飲み直しましょう。」
捜査第二課と言っていたから、おそらく金融犯罪や贈収賄を担当しているのだろう。
ただ、目から鼻へ抜けるような…という印象と若さがまだ不釣り合いで、
7つ8つ年上の泉田から見れば、やや小賢しく感じる。
「申し訳ないけれど、もう失礼をするつもりだったの。明日も早いので。」
「そうですか…警備部の職務も大変なんですね。室町警視にはもっと頭脳犯罪の解決に役立ってもらう
ポジションの方がいいんじゃないかと思います。」
僕のように、か?泉田はグラスをテーブルに置くと、さりげなく少しその場から下がった。
話しかけている2人は、もとより泉田など気にもとめていない。
「そうだよ、ここだけの話、今の警備部長ってもう出世は頭打ちなんだろ?
だからキミにもつらく当たるんじゃないか?」
なるほど。由紀子が今の上司と不仲であるという噂は泉田の耳にも入っていたが、
相当広まっているらしい。由紀子がこういったパーティに長居したくない理由も、そのあたりにあるのかもしれない。
泉田の上司も、その上の上司とはかなり不仲である。
いや、不仲という表現は少し違うかもしれない
全く信用せず、完全にナメてかかっているというあの態度を、どう表現すればいいのだろう。
しかし由紀子には出来そうにないことだ。
「お気づかいありがとう・・・またお目にかかりましょう。」
由紀子の固い言葉に、2人は肩をすくめると立ち去って行ったが、
重いため息をついた由紀子の顔が沈んでいたので、
泉田はどう声をかけるべきかわからず、じっと後ろに立っていた。
やがて由紀子は顔をあげて、泉田を振り返った。
「みっともないところを見せてしまったわね。」
「いいえ、おみごとでした。」
泉田は心からそう答えた。
由紀子は2人の口車に乗って上司の悪口を言うこともなく、自身を弁明することもしなかった。
それは由紀子らしい潔さと強さだ。
少し落ち着いたのか、ほっともう一度溜息をついた由紀子を前に、
泉田は微笑みながらテーブルの上のワイングラスを取り、一口含む。
「あ…。」
ふいに由紀子が戸惑ったような声を上げた。
「え?」
泉田が由紀子の視線の先を追う…泉田の持つワイングラスだ。
泉田はテーブルの上を見た。手前にもう一つワイングラスがある。
どうやらこれは由紀子のものだったようだ。
「これは…失礼しました。もう一つ新しいものを。」
ウェイターを呼ぼうとした泉田の腕を、由紀子は軽く押さえた。
「い、いいの。もう失礼するので。」
「しかし…。」
「おいしかったわ。ありがとう。泉田警部補。・・・本当にありがとう。」
由紀子は泉田の腕からそっと手を離すと、背を向け、建物の方へ歩き出した。
「失礼いたします。」
泉田はその背中に声をかけた。
そして手に持ったグラスを軽く揺らし、一気に飲み干した。
由紀子はクロークで荷物を取り、門の外に出た。まだ夜は少し冷える。
車寄せに次々来るハイヤーを避けて、出てからタクシーを拾おうと歩き始めたところで、
柵にもたれている完璧なシルエットを見つけた。
「お涼…。」
「げっ、お由紀・・・。なんであんたがこんなところにいるのよ。」
「それは私の方こそ聞きたいわね。」
涼子はきっと由紀子を睨んでいる。
思わず由紀子もにらみ返す。
その瞬間、由紀子は自分の何かに火がついたのに気づいた。
目に力がこもる。頭の中の霧が晴れていく。
誰もがみんな自分のことを噂しているような気がして、
びくびくしていたついさっきまでは、忘れていた感覚だ。
由紀子はその感覚を静かに押さえながら、相手が一番欲しがっている回答を差し出してみせた。
「泉田警部補はまだ中よ。」
「なんであんたが知ってんのよ?」
あせる涼子を腕を組んで横目で見ながら、由紀子はとどめの一言を繰り出した。
「んん・・・そうね、結果的にはキスしちゃったから。」
「はあっ!?」
由紀子は自分の唇を軽く押さえてみせる。
涼子は胸ぐらをつかまんばかりに身を乗り出してくるが、由紀子は軽く身をかわした。
「まあちょっとしたアクシデントだから悪く思わないでね。じゃ。」
「アクシデントって…ちょっと!」
「本人にお聞きなさいな、迎えに来たんでしょう?」
ちっ、と涼子の舌打ちを背に、由紀子は歩きだした。
風が気持ちいい。
いつになく心が軽くなるのがわかる。
たったグラス一杯のワインなのに…とんでもない魔法だったのかもしれない。
このまま少し夜の中を歩いてみようか。
由紀子は微笑むと大きく息を吸い込んで、コツと軽いヒールの音を響かせた。
その後、泉田が門の外でどんな目にあわされたかは、御想像にお任せいたします…。
(END)
*がんばれお涼サマ(笑)。
私は凛々しくまじめ、そして強気な由紀子さんが好きです。
ちょっとキャラ壊れちゃったかな?ごめんなさい。でも彼女にもこんな時があってもいいですよね。